mei_diary

嵐とSixTONESを中心としたドルオタの不定期投稿ブログです

あの頃届かなかった光が、今を煌々と照らしていた

ふと、過去に戻りたいと思うことがある。


別に、今を変えたいわけじゃない。でも、こうしていれば、これがあれば、あれができてたらもう少し違ったんじゃないか、という時代が私にはある。


それは中学校に通っていた頃のことだった…。

 


そもそも、以前ブログで言及していたことがあるが、私は中学生時代、意図的に自分のことを嫌いだと思うようにしていたことがある。何があったかといえば、ざっくり言うと“自己陶酔”との混同だ。周囲の環境も、自分の安直な思考も相まって、「自分のことが好き」という考え方に抵抗感を持ってしまっていた。

そして、その感情を助長した要因に、圧倒的な自分への自信のなさがあった。

第一に、突出した特徴なんてものが私にはない。世渡りもどちらかといえば下手なほうだし、人の目はそこそこ気にする方で、気にしいで、割と根暗で、ネガティブだった。それもあったのか元々なのか、自ら目立つのも、注目されるのも、あまり得意じゃない。どちらかというとひっそりしていたい人だったし、それは今でもそう。

あと蛇足かもしれないが、元から学校のクラスの中でも立場は一貫して弱い方だったし、大抵悪い意味で目をつけられていた。気づけばいつも、誰かにとってのターゲットだった。いじめも多々受けたし、狙われすぎていちいち覚えてられたもんじゃない。だけど、「過去になんか嫌なことをされた」「嫌なことがあった」という記憶だけは焼印のようにはっきり残っている。

 

気づいたらずっと受けていたいじめとか、一方的に恐れていた周りの視線とか、そういうので積み重なっていった自己嫌悪とか。数多の負荷によって私の身にもたらされた、色彩などない、単調よりも単調な日々。勉強も、習い事も、なんなら娯楽も、大抵のことに意味を見いだせなくなっていたし、自分が生きている理由すら見失っていた。

感情はもとより存在すらもあったもんじゃない、周りにも自分にもいかに波風を立てずに過ごすか、それだけに神経を使っていた。

気にするべきものじゃない余計なことにも神経を使っていた、というか、気づいたらそういう余計なものしか私の周りにはいなかったというのが正しいだろうか。そればかりを気にして、萎縮し続けていた。


高校生になってからも、中学生当時の思考や意識を要因とするであろう失敗はいくらかあったし、負の連鎖はある程度断ち切っても自分に自信が持てたわけじゃなかった。怖いものは、いつでも“誰かの視線”だった。

結局のところ、やっぱり自分に自信は持てないし、自分自身のことも、めちゃくちゃ嫌いなわけじゃないけど、そんなに好きでもないらしい。というか、実際どっちなのかもよく分かってないと思う。

 

 

時は経ち、大学生になった。当時よりはだいぶ楽に生きられるようになった。「夢」と言うにはちょっと大袈裟かもしれないけど、やってみたいことを見つけ、それに向かって走っている。

だけど、何かにつけて自信のない自分が顔を出すことがある。


ある実践系の授業で、複数人でグループを組んでアクティビティをしたときだった。私に向けた改善点を先生から告げられたとき、自分の自信のなさと不甲斐なさに、人前だというのに涙が止まらなくなったことがある。

元々、自信はない方だった。不安は最初から大きかった。でも、そこにいるのが私じゃなかったらもっといいものになってたかもしれないのに。私がそれのクオリティーを下げてしまったんじゃないか。そんなふうに思ってしまった。

またひとつ、嫌いなところが見えてしまった。なけなしの自信も底をついた。

受け入れられそうだった“自分”が何か、また分からなくなった。

 

 

SixTONESの4thアルバム「THE VIBES」のユニット曲が解禁されたのは、まさしくそんな日だった。


プレミア公開で全曲聴いた後、改めてもう一度じっくり聴こうと再生したら、「Blue Days」があまりにその日の私の心に突き刺さって、再び泣いた。

さっき泣いてたばっかりなのに、また泣いた。

泣いたって悔やんだって

そのままで綺麗だよ

隣に居るように歌を歌うよ

何度も泣いたのは、紛れもなくここだった。何度も聴き返して、その度に泣いた。このフレーズにも、このフレーズを歌う髙地さんの優しい歌声にも泣いた。実際、フルサイズで聴いてからは、同じ歌詞を歌うジェシーさんの歌声にも、幾度となく心を暖めてもらったものだ。

 

 

そして、少し冷静になった時に思った。「中学生の頃にこの曲と出会いたかった」と。

これが、私が過去に戻りたいと思う理由の1つだ。当時の私にこの歌を聴かせたい。

どうしても、これはあまりに“私のこと”すぎると思った。

 

例えば、1番Aメロ。

他人の芝が青く見えたり

「好き」が1日で裏返ったり

そんなつもりなくたって

自分がうまく愛せなくて

 

疲れたなって表現が下手な

面の皮で繕わなきゃって

心は見せないブルーシート

中は汗だくで苦しいよ

このAメロだけで、私は「なんで私のことがこんなに分かるんだろう」という自惚れた感想を抱いた。のっけからこの調子である。

 

解禁日に泣きじゃくったあのサビを経てもそれは続いた。

どう思われてるかなんかも

確かに気になるがなんかもう

そこ重要視し始めたら

ブルーになりそう

このご時世自分を犠牲にしてちゃ

驚きも喜びも忘れそう

ここもまた特に「そのまますぎる…」と思った。あまりにも私だった。

 

思えばあの頃の私は、ありとあらゆる“好き”という感情がなぜか怖かったし、いつしか自分のことも嫌いになっていた。そういう自分悪くないなって思いが芽生え始める自分もまた嫌いだった。

“そのままの自分”ではきっとやっていけない。心の内なんて見せようともしなかったし、ひたすら苦しかったけどそんな自分にも目を背けていた。

自分をどうやって大切にしたらいいか、というか自分のことが自分でも分からなかった。どう思われているか、どう思われるか、それしか気にしてなかった。自分を犠牲にしすぎて、文字通り驚きも喜びも何もあったもんじゃなかった。

 

ずっと、ブルーだった。ずっとずっと、堕ちていた。

 

そんな、自分自身のことが心の底から嫌いで仕方なかったあの日の私が聴いたら、どんな反応をするだろうか。泣き崩れるだろうか。いや、そもそも泣けるだろうか。きっと、そう素直には聴けないだろう。

逆に、そんな歌聞いても無駄だ、と余計に塞ぎ込んでしまうのだろうか。どうせこの歌を聴いたところで何も変わらないんだから、綺麗事なんて歌うなよ、聴かせるなよと逆上する可能性もある。

 

この歌で無かった事に

ならないってわかってるよ

だがこの歌はこう言葉にしている。その通りだと思う。歌ひとつで自分の置かれた環境が改善されるなら、その状況が好転するなら誰しも困ることなんてない。

そこまでの力は、さすがにどの歌も持ち合わせてはいないだろう。

だから、当時の私はこれを聴いたところで逆上しかねないのだ。そもそも、なぜ音に乗せて言葉を紡ぐのか、音の連なりの意味とは、理由とは…、そんなことを考えるほど病んでいたので、当時の私に対して音楽が意味をなさない可能性すらもある…。

 

それでも届いてほしいと思うのだ。めちゃくちゃに荒んでいたあの日の私の心に、この歌の優しさが、2人が奏でる暖かさが。

 

 

とはいえ、この歌を、「Blue Days」を当時の私に聴かせたいなんて、そんなのも今の私のエゴに決まっている。

だが、そうだろうと構わない。無理矢理にでも聴かせようと試みると思う。

 

だって、この歌の何かがあの日の私の中で引っかかる気がするから。今の私にあのフレーズが刺さったように。

結局どれだけ時間が経っても、考え方が変わっても、私は私でしかないから。4〜5年で性格も思考回路もあの頃と真逆の人間になれるほど私は器用じゃないから。

 

あの頃の私には届くはずもなかった光が、今ここで私を照らそうとしている。私もそろそろ前を向かなければいけない。

 

 

「Blue Days」は、あんな過去も、荒んだ心もひっくるめて、間違いなく“私”を受け入れて認めてくれた歌だ。