mei_diary

嵐とSixTONESを中心としたドルオタの不定期投稿ブログです

“買わない”という選択肢の話

…そういえば、こんなこと言っていたのにね、去年の私は。

全てじゃなくても、受け取れる限りのものをきちんと受け取り、それを心から大切にする。それが、受け取り手の使命であり、責任だと私は考えています。

〔from 「数字」について思うこと - MEI

 

あーっと、そうなると今の私、だいぶワガママさが出ているのかもしれない。いけないいけない。

 

あ、でも“物分かりのいい人”でいようとするのはそんなに苦手じゃないんです。だから、“買いたい”という思いを抱えながら、自分に言い聞かせるようにこのブログを書いてたのかもしれないな、って今はそう思います。

 

(おいおい筆者よ、急に何を言い出す)

 

さて本題(突然失礼しました)、私は何度目かの“買いたい”という感情と“節約しなくては”という感情の狭間にいます。

ちょっと詳しく言うと、将来的にお金が必要になってくる、すなわち、現時点であまり出費がかさばってはいけない、私は今そんな状況下にいます。

 

CDやDVDって、意外とお金がかかるもの。やはり、全形態揃えられるなら私自身も言うことはないけど、そういうわけにもいかない現実がある。だから、時には“買わない”という選択肢をとる必要があるし、まさに今の私はその選択肢をとらなければいけない。

 

冒頭のブログ(「数字」について思うこと)では、売上枚数だけに気を取られたくない、私はそう書いていました。

でもよく考えると、売上どうこうよりも、自分の欲望のままCDを買う、という状況が続いていたんです。欲しいから、全曲聴きたいから、MVも見たいから。やっぱり売上も多少は気になるし、またそれを理由とせずとも買いたいという衝動には逆らえなかった。

 

揃えなくても全部聴けるなら全部揃えなくても、とも思う。だいぶ贅沢だけど揃えたいなとも思う。

ただただジレンマ。

 

 

だからといって。

 

全形態揃えられなくても、そもそも金銭的に余裕がなくて買えなくても。

 

ファンの資格を剥奪されるわけではあるまいし、気にすることもないはず、ですよね。

(ただ、私自身がそれだけでアッサリと開き直れるほど単純な人間でもない…。あー、めんどくさいな私…。)

 

どうやら私にとっては収拾がつかない厄介な論題だった。

なんでこんなことでグルグル考えを巡らせては落ち込むのだ、私…。

 

 

あ、でもこれの解決方法、たぶんファン・オタクの数だけあるパターンなのかもしれない…。

 

 

 

…ということで以上、“買わない”という選択肢を目の前にして悶々とする筆者でした。この件、金銭的にも無理はできないし、さすがに諦めることも必要な模様です(思わぬ自己完結…)。

あれから約1年半。ぐっちゃぐちゃな感情の狭間で。

 

「私は本当に嵐が好きなのか…?」

 

いつしかこの感情が、私を大いに苦しめてきた。

 

 

 

学2年生で嵐に出会い、好きになってから10年経つ。

 

嵐が活動休止してからのこの約2年の中で現れ、忘れた頃にふと訪れては私をこれでもかと悩ませ、散々なまでに苦しめる、“私は本当に嵐が好きなのか”という小さくて大きな疑問。

 

いや、好きなはず、大好きなはずなのだ。

 

少なくとも、永遠に嫌いになるなんてありえないということは確実であり、それだけ私にとっても大きな存在だということは明確だ。

 

また、どんなに他のグループに興味を持っても、“嵐が好き”というのは私の誇りだった。

 

 

しかし、それに陰りが見えてしまった。

 

それは嵐の活動休止が近づく2020年の終わり頃からだった。

 

5人がこれでもかとテレビで特集され、レギュラー番組の「VS嵐」や「嵐にしやがれ」も幕引きが近づき、これまでの名場面集やメンバーの特集が自然と多くなった。

 

 

私には怖くて見られなかった。

 

 

本当の終わりじゃないのに、本当の終わりのように思えて。

 

これで最後なわけじゃないのに、終わりが近づくのが怖かった。

怖くて怖くて、これでもかと逃げた。

大好きなはずの嵐からたくさん逃げた。申し訳なくなるぐらい、嵐から距離を置いた。

 

元はといえば、2020年の始めから既に“活動休止”への恐怖から頑張って逃げようとしていた。

恐怖から逃げる場所を探し、嵐から距離を置いては逃げ場に突っ走った。そんなありとあらゆる逃げ場にも申し訳ない。

 

また、ファンクラブで配信されていた「嵐ジオ」も、年が明けて2021年5月いっぱいまで配信されていたのに、それすら怖くて聴けなかった。

2021年はそもそも“嵐”を感じるのが怖かった。

絶対に寂しくなるって分かっていたから。

 

 

年明けすぐはやっぱり寂しかった。

 

しかし、3ヶ月もした頃には寂しさも薄れていた。

 

 

嵐が出ているテレビも見られない、ファンクラブの嵐ジオだって聴けない。なんなら嵐が出てこなくなっても寂しさすら感じない、嵐のメンバーが出ているテレビも、思うように見られない。

なんて無情な奴なんだ、こんなの嵐ファンなんかじゃない。なんで私はこんなひどい人なんだろう。ただただ自分を責めた。

 

何が正解なんだろう。

直前のブログ(後ろめたさと本音と、6つの音色。 - MEI)でも少し触れていたけど、ファンの線引きって曖昧で。「この条件を満たしていたらファン」っていうのも特にない。だから、ただ苦しくて。

おまけに、直前のブログでも自分のことを責めた話をして、ここでも自分を責めた話。

どれほどまでに自分を責めたら私の気は済むのだろうか。

 

少しずつ、嵐のことを考えても大丈夫にはなってきた。

嵐が好き、その思いが変わるわけではない。

 

でも、自信が持てない。自分を責めてしまう。

私の人生において、いちばん印象的で、大きな存在だからこそ、

「私は嵐のファンなんだ、嵐が好きなんだ」

って、もっともっと胸を張って言える人でいられたらどれだけ良かっただろう、どれだけ楽だっただろう、とつくづく思う。

 

 

この自問自答の答えは、いつまとまるのか。

まだ、その結論は出そうにない。

後ろめたさと本音と、6つの音色。

先日、SixTONESが結成7周年を迎えました。

ファンになってからまだ日は浅いのかもしれない、でも私もなんだか感慨深く感じていました。

 

しかしながら、SixTONESを好きになったことから、今まで感じたことのない苦悩を経験したのも事実。

今回は、私には荷が重かった苦悩と、それを受けて少し変わった向き合い方の話です。苦しくなる可能性も大いにあるので、気が向いたら読んでください。

 

 

 

私が感じた苦悩、それは主に後ろめたさだった。

それを感じたのはこれまで2回。

1回目は2021年1月、SixTONESの1stアルバム「1ST」を手に取った直後だった。

買った帰りの車の中で早速聴いた。車だったからか、各曲のベースの響きが心なしか大きかった気がする。そのベース音が当時の私にあまり馴染みがなかったこともあり、SixTONESの曲を聴いていて初めて「苦しい」と思ってしまった。SixTONESの曲をも素直に受け入れられない私はきっとSixTONESのファンには向いてないんだろう、私なんかファンをやめてしまったほうがいい、と深く深く思い悩んだ。

しかしそのあとに聴いた「1ST」収録曲の1つ「この星のHIKARI」で、なんだか少し救われた気がした。しばらくは悩む日もあったが、4thシングル「僕が僕じゃないみたいだ」がリリースされた頃にはだいぶ落ち着いた。

 

 

2回目は2021年9月、1回目の苦悩のことを吐露したとき。

あまり直接的には言わないでおくが、比較的私と関わりがある人に、話の流れで上記のことを言った。

その人はもうすでに見抜いていたんだろう、こう言われた。

「それでいったらSixTONESの曲はあんまりタイプじゃないよね?」

正直、図星だった。私はそれを分かり切った上で、その事実から目をそらし続けていただけなのだ。

そして、これが再び私のSixTONESファン人生を大きく揺るがすことになってしまった。

 

 

一時期つけ続けていた日記の中で、その頃の私は、こう綴っていた。

 

また1度、距離をおく必要ってあるのかな…。てか、距離をおくくらいならファンでいる意味ってないのかな…。

「こんな奴がファンでごめんなさい」ってなるよね。6人に申し訳ない。

6人に関わるスタッフさんにも、ファンの人たちにも申し訳ない。

 

 

確かにSixTONESは好きだ。でも、SixTONESの何が好きかというのが全然はっきりしない。SixTONESの歌やパフォーマンスなのか、パフォーマンスをしているSixTONESなのか、テレビで見るSixTONESなのか、YouTubeで見るSixTONESなのか。

そして、とてつもなく曖昧な“ファン”の線引き。何をもって“ファン”とすべきかもあやふや。とはいえ、SixTONESの本業である“音楽”を私は素直に聴けない、正当に評価できない。こんなんでSixTONESのファンだなんてあまりに残念すぎる、都合が良すぎる、失礼すぎる。自分でも怖くなるほど自分自身を責めた。

 

 

自然と受け入れたのか、何かきっかけがあったのか…、どうやって立ち直ったかはほとんど覚えていない。

ただ、それを受けてスタンスが少し変わった気がする。

 

1つ目、まず期待のし過ぎは毒だ、そう思った。

決して一切期待しないと決めたわけじゃないし、何なら期待することは今もある。でも、結果が期待に沿わなくてガッカリするのはとても苦しい。私にとっては「1ST」がそうなってしまったから。じゃあ、期待もほどほどにしつつ、深く考えずに楽しめたらそれがいちばん良いんじゃないか、そう考えられるようになった。

2つ目、作られたものがどんなものでも彼らは本気だから、一度何も考えずに受け取ってもいいんじゃないかな、そう思い始めた。

どれだけの想いが込められているか、そのすべては分からないけど、彼らの「本気で作っている」という言葉を信じようと思った。

 

それからは気持ちがかなり楽になった。

SixTONESを応援していて「楽しい」とまた思えるようになった。

 

これほど苦しんだことも、向き合い方を考えたこともなかった。

でもそれは、私にとって特に大きな出来事の1つになったかもしれない。

 

 

SixTONESと出会えたこと、SixTONESを好きになれたこと。自分でも不思議だと思うけど、私は幸せです。

SixTONESの皆さん、遅くなりましたが、結成7周年おめでとうございます。

増えることも減ることも変わることもしない、この6人だからSixTONESは最強、そう信じています。

そして、この最強の6人で、どこまでも行ってほしいし、いつまでも一緒にいてほしい、そう願っています。

Dear Travis Japan

びっくりしました。

 

Travis Japanが、3月末からロサンゼルスに無期限で留学に行くということに。

 

すごいなと思うと同時に、なんだか寂しいです。

 

でも、実際に海外に行くということ、世界で挑戦すること、これはまたとない貴重な機会です。

様々なものを見て、様々なことを学んで、さらに大きく大きくなって帰ってきてくれたらとても嬉しいです。

 

不安なこともたくさんあると思います。でも、みなさんの側には心強い仲間がいます。

色んな意見があると思います。ですが、目の前にはみなさんが信じた道があります。

 

色んな感情を抱くことも、今以上にあるかもしれません。

辛いことはたくさん吐き出して良いと思うし、常に前を向けないときがあっても良いと思います。

 

きっと、それらを乗り越えた先に、新たな景色が待っているでしょう。

 

 

そして最後に。

応援してくれる方々を、すぐ側にいる仲間を、「Travis Japan」というグループを、そして何より自分自身を信じて、全力で頑張ってください。

 

 

夢が現実になるその日まで。

 

 

私も、陰ながら応援しています。

 

 

エンターテインメントとリスクを考える

一昨年から感染が世界的に拡大し、未だ猛威をふるい続けている新型コロナウイルス

 

感染状況が予断を許さない中でも、エンターテインメントは確実に動き始めています。

 

一昨年は、ほぼ全てのコンサートや舞台等劇場公演が、軒並み中止に。

昨年からは、感染対策を入念に行いながら、コンサートも劇場公演も再開しつつあるという現状。

 

 

「不要不急」と言われ、多くの関係者が辛い思いをしてきたエンターテインメント業界。

安心しきれない状況ながらも、そこから前に進み始めたということは、確実な進歩だと思うんです。

 

 

だからといって、世界は何一つコロナ禍前に戻ってはいない。それはエンターテインメントも例に漏れることはない。

それでもなお、まるでコロナ禍前と同じように振る舞う人がいるとかなんとか…。

 

これでは、ただでさえ危険な世の中だというのに、エンターテインメントはさらに危険に晒されている、ということになります。

 

 

なにが“危険”なのか。

私は、エンターテインメントに関わる全ての方々の身の安全を確保しきれないということが“危険”だと思うんです。

 

“身の安全”、この場合はマスクを着用する、消毒をするなどの、コロナウイルスの感染対策を主に指しています。

 

その中でもコロナ禍前と同じように振る舞う、というのは、マスクをしない、消毒もしない、あからさまに声をあげる、などということです (もしかするとこれ以外にもあるかもしれない…)

 

 

ここで、コンサートを例にとって説明します。

コンサートには多くの人が集まるので、マスク着用や消毒、検温はきちんと行わなければいけません。

また、自分たちで用意するなり主催者側から配布されるなり、フェイスシールドが必要なケースも決して少なくはありません。

少なくとも、マスクやシールドは目に見えて分かる、非常に目立つ部分です。

また、現在行われるコンサートは、歓声をあげないように、と規定されているものがほとんどです。

 

 

それなのに、シールドはおろか、マスクすらしないなんて。うっかり漏れたというわけでもなく、意図的な歓声をあげるなんて。

 

そういうことをする人たちに問いたい、どこまでエンターテインメントを危険な目に遭わせるつもりだ…。

 

 

第一に、コンサートや舞台公演など、“出る側”の人たちがマスクを着用して出るなんてことはほぼ不可能。まして、声を出さないで公演を行う、なんてことできるわけがない。

 

だから、観客、すなわち“見る側”の人たちがマスクやシールドをきちんと着用し、声を出さないように、ということに努めなければいけないはずなのです。

そして、“見る側”になった人たちは、それを承知、また覚悟の上で行かなければならない、私はそう思います。

 

 

エンターテインメントが動き出したとはいえ、危険性がなくなったわけではありません。

 

感染者が出たから公演が中止、という事態が生じる前に、感染のリスクを最小限まで抑えなければならないのです。

 

 

エンターテインメントに関わる人たちにも、暮らしがあります。出演者・スタッフの皆さんは、感染のリスクを抱えながらも、エンターテインメントを通じて、見てくれる方々に幸せを届けようと尽力してくださっています。

 

そんな彼らのリスクを軽減できるのは、私たちひとりひとりです。

私たちが感染対策を心がける、それだけでも、彼らの身に及ぶリスクは減らせるはずです。

 

 

 

 

 

時と場を問わず、どんなに気をつけても感染する可能性がある、ということはもちろん、コロナ禍が続く中でコンサートや劇場公演に行くということ、それは、決して安全ではない状況下に身を置くということであり、大きなリスクを伴うことでもある、ということを覚えておく必要があります。

 

だからこそ、リスクを減らす、自分を守り、また他の人も守るために、できる対策をとるということを決して忘れてはいけないのです。

「自己肯定」 への羨望

ここ最近、“自己肯定感” についてあれこれ考えを巡らせるようになった今日この頃。

突然の深すぎる話、でもきっかけだってきちんとあるんです。

ということで、今回は、私の一方的な自己肯定への羨望について話していこうかな、と思います。

 

 

…さあ何を隠そう、これが自己肯定感について考え始める大きなきっかけだ。

youtu.be

SixTONESYouTubeの企画「今好きなもの…100個書いてみた!」のときのショート動画。

自分が好きなものを1位から100位まで書く、というシンプルな企画。

 

そして、このショート動画では、森本慎太郎くんと髙地優吾くんの「好きなもの100位」の話題があがりました。

 

ここでは髙地くんの回答をベースに話を進めます。なぜなら彼の回答が今回非常に重要になるから。

 

さて、サムネの通り、彼は100位に「自分」と書いています。

が、京本くんの「ホントに100位か?」を皮切りにメンバーから突っ込まれたのち、北斗くんに「実際何位くらい?」と聞かれた髙地くんの回答は、

「自分? 2位。」

と、かなりの上位に位置する結果に。

 

 

この回答、衝撃でしかなかった。

勝手な想像の話だけど、髙地くんがここまでハッキリ自分が好きと言うなんて、言えるなんて思ってなかったから。

 

そんな彼の回答に頭を殴られたような衝撃に見舞われた翌日。

 

樹くんが「ZOO‐1グランプリ」に出演するにあたってのコメント動画を見たのを境に、私は本格的に「自己肯定」を考え始めてしまった…。

youtu.be

「あなたが“熱愛”するものは?」という質問に、少し考えたのち、「自分」と回答。

 

回答にはまたまたびっくり、でも、その質問への回答と説明だけで、「す、すげぇ…。」と感心してしまったんです。

 

 

 

なぜ“自己肯定”を考え出したのか。その理由は単純。

「自分が好き」って言える人が、そう言えることが、とてつもなく羨ましかったから。

 

なぜ羨ましいか、だって私がそうじゃないから。

 

私は私が嫌い、とバッサリ言い切らなくていいくらいにはなったけど、どちらかと言われれば自分のことは嫌いなほう。

 

というか、「自分のことが好き」と言うことがイヤだったことがあって。

そう言うと、なんかナルシストみたいで。自分の周りが、ナルシストへの印象が芳しくない環境だったのもあり、「自分のことを好き=ナルシスト→よくないこと」という価値観が刷り込まれ、そうなりたくない一心で、自分を嫌うようになってしまいました。

 

また、学校において、私は好ましくない目に遭い続け、自分への自信もなくなり、その結果、どこまでも自分を卑下して、我慢して、抑え込み、ひたすら嫌い続ける、ということまでしないとどうにもやっていけなくなってしまう、という史上最悪の精神状態に陥ってしまいました。

 

 

 

高校に進学してからは、そう感じることは減り、自己否定もある程度改善。でも、未だに自己否定感は拭いきれない。

そして、やっぱり自分のことを好きにはなれない。

 

そんな私にとって、「自分が好き」と堂々と言えることは正直とても羨ましいし、上記に示した2人みたいに、そう自信を持って言える人は本当にすごいと思うんです。

 

 

決して過度に自惚れたり、天狗になったりしてはいけない。

でも、過度に自己否定してもいけないんだと思う。

 

過剰にならない程度に、自分のことを好きでいられる人でいたいなぁ、なんて今の私は思います。

 

 

 

前の私には、こんなこと絶対に考えられなかった。なぜなら「自分が好き」というのは邪道だと思っていたから。

だからこそ、「自分が好き」でいられたほうが絶対良い、って思えると、心がちょっと軽くなると思います。

 

 

バランスを見つつ、自信を持てるように、自分のことをもっと肯定できるように、もっと好きだと思えるように、私も努めたい。

 

 

…もしかすると、今いちばんふさわしい感情は、それができる人への“羨望”というより、“尊敬”なのかもしれない。

自分の首を自分で絞めてはいけない

私は前に「ビルボ対策に物申したい今日この頃。 - MEI」というブログを書きました。

その際に、あまり詳しく理解していなかった「ビルボ対策」について調べたとき、サジェストに「スト担 嫌い」という文字をみつけてしまい、落ち込んだことがあります。

 

スト担でもある私にとっては、あたかもその全てがそうであるように見えてしまうのがとても悔しかった。

 

 

ではここから本題に入りますね。

好きなアーティストやタレントなどを応援する上で、私たちファンがやってはいけないことっていうのがいくらかあると思うんです。

 

その中の1つが、「自分で自分の首を絞めること」。

要は、そのイメージを下げることです。

結局、自分たちファンのせいで、ファンの印象、さらには推しの印象も下げることになる。

 

私がかつて、ビルボ対策を調べたときに見つけて落ち込んだあのサジェストも、スト担、それもほんの一部の人が、無意識にもイメージを下げることや嫌われることをしていた結果なのではなかろうかと思います。

 

最終的に、それらの行動が仇となって、「民度が低い」と、全てがその一言、たったそれだけで片付けられてしまうんです。

 

 

自分がした行動、放った言葉が、自分たちの、そして好きな芸能人のイメージを下げることに繋がってしまう。

そして、イメージが下がるのは自分自身だけじゃない。他の人たちも一斉に巻き込まれて、みんなのイメージがまとめてぜーんぶ悪くなる。

 

それを、どこか覚えていられるところに留めていてほしい。

 

 

 

ルール、マナー、イメージ…。

あらゆる面で、自分たちの推しにも誇れるファンでありたい。

だからこそ、そのことについて、ひとつ考えてみてはどうでしょうか、なんていう、いちジャニオタの心の声でした。